古代韓日關係史: 百濟倭



 

古代の韓日関係:百済倭


ソウル大学校 社会大 洪元卓


 

 

1、要約

2、ヤマト王国の創建時点

3、日本の天皇家の根源

4、ヤマト王国の建国説話と高句麗神話の類似性

5、韓国語と日本語

6、おわりに


 

1、要約

 

『日本書紀』は、ヤマト(倭)王国は紀元前660年に樹立されたと記している。ところが、多くの日本の史学者たちもこれを信じてはいない。それは第15代王の応神の時代から始まったというのが定説である。『日本書紀』の記録内容を分析してみれば応神は、390年に王位にのぼったと推定される。東京大学の江上教授は、だいたい375年頃を基準に、その前は馬と関連した遺物が全く発掘されていないのに対し、その後は馬の骨、鞍装、鐙子、くつわなどの遺物が出土し始まったことを根拠に、大陸から渡ってきた騎馬民族が日本列島を征服し、ヤマト王国を建設したと、騎馬民族説を主張した。コロンビア大学のレドヤード教授は、346年に扶余が滅亡した事実を根拠に江上の言う騎馬民族が、すなわち扶余の人々であると主張した。しかし筆者は、『古事記』と『日本書紀』の全編に流れている記録内容を根拠に、江上のいう騎馬民族はほかならぬ百済の人々であると推定する。


2、ヤマト王国の創建時点


  
大多数の日本の史学者たちは、ヤマト王国は4世紀末頃の応神時代から始まると推定する。712年に完成された『古事記』と、720年に完成された『日本書紀』によれば、応神はヤマト王国の15代王である。『日本書紀』の内容を検討すれば、応神は西紀390年に王位に座ったと推定される。

津田左右吉(1873-1961)は、『古事記』と『日本書紀』に登場する応神以前の王たちに関する記録というものは、ヤマト王族を太初から始まった支配者とするためにすべてを捏造したものだと主張した。

津田が第一番目に提示した根拠は次のようである。『古事記』と『日本書紀』によれば、始祖の神武以後、神功王后の夫といわれる仲哀までの(すなわち2代から14代王までの)13人の王たちは、ただ死後に作られれ付与された諡号(和風の諡号)だけで記録されている。それぞれの名称を検討すれば、各自の固有性は全くない。これに反して、15代王といわれる応神王からは、それぞれ、王子の時から実際に使っていた特有の名前をそのまま王の諡号として記されている。応神の王子の時の名前は「ホムダ」であり(和風の)諡号も「ホムダ」である。神武や応神という中国式の名称は、『古事記』と『日本書紀』の原本に記録されている名称ではなく、8世紀の後半に改めて中国式(漢風)に作られ付けられた諡号である。

津田が第二番目に提示した根拠は次のとおりである。『古事記』と『日本書紀』に記録されている(14代王という)仲哀までの王位承継の形式を見れば、一つの例外もなく、すべてが父から息子に繋がっている。ところが(古代の中国王朝の伝統である)父子間の王位の継承とは、7世紀後半の天智王以後までもただしく確立されていなかった。応神以後から天智以前までの王位の継承は大多数が父子の間ではなく、(トルコ・モンゴルの遊牧民族の伝統である)兄弟の間の継承であった。

このような根拠を提示しながら、津田は応神以前の王たちに対する記録は、すべて虚構であると主張している。私はヤマト王国は応神(ホムダ)より始まったと推定できる根拠を(津田が提示した根拠に追加して)、さらに四つぐらい提示したい。

第一番目の根拠である。津田は応神以前の王位の継承がみな父子の間での承継であるという特異な点に疑惑の焦点を絞った。ところがより大切な事実は、あまりにも非現実的に、王位の承継がたいへん「平和的」行われたということである。応神以後を見てみよう。応神から仁徳に承継される時、ひとくさりの骨肉相争の流血劇が行われていた。仁徳から履中・反正兄弟に承継されていく過程のなかでも骨肉相争の流血劇があった。反正より允恭に承継される時、流血劇ほどではないが、非常に特異な状況が展開されていた。允恭から安康・雄略の兄弟に承継される過程のなかでも、また一場の骨肉相争の流血劇があった。雄略・清寧から顕宗・仁賢の兄弟に承継される時にも、また仁賢・武烈から継体に承継される時にも、たいへん異常な状況が展開されていた。兄弟の間の王位承継がほとんどであったという事実自体よりも、王位の承継がいつも順調ではなかったという点が、応神以後の『古事記』・『日本書紀』の記録が現実的であるということを思わせてくれる。

第二番目に追加したい根拠である。『日本書紀』の記録を見れば、14代王といわれる仲哀が死去したと言われる年から15代王といわれる応神の即位まで、長くも71年に達する空白の期間を、自他が公認する架空の存在である神功王后が、摂政を行いながら補っている。したがって応神(ホムダ)からが実存の人物であるという主張がより合理的であろう。

第三番目の追加根拠である。712年に『古事記』の編纂が完了されると、ヤマト朝廷はただちに全国に命令を下し、各々地方の現況と昔から伝えていたあらゆる話などを記録して報告するようにした。これらの記録は、720年に完成された『日本書紀』を編纂する時に使用された。これらの話のなかで、いままで伝わっている播磨風土記は、713-715年の間に作成されたものと見なされる。この播磨風土記によれば、ホムダがヤマト王国の始祖であることを明らかにさせる記録が少からず入っている。たとえばホムダは、しばしば巡行や狩猟を行い、数多くの地名がホムダの細やかな言行と関連して作成されていたのである。他の王たちに関しては、ほとんど触れていない。

第四番目の追加根拠である。『古事記』と『日本書紀』は、すべての王たちのなかで、ただ神武と応神(ホムダ)だけが九州で生まれたと記録している。神武は、天孫である邇邇芸(ニニギ)が天から降りてから、また応神は母親(神功王后)が韓國から船に乗ってきて九州に上陸した直後に、それぞれ生まれたと記録されているのである。応神がヤマト王国の始祖であり、土着勢力ではないと思わせる記録である。


3、日本の天皇家の根源


Model Building


では、390年頃にヤマト王朝を創建した日本の天皇家の根源はどこで探せられるのか?いったいヤマト(倭)王國は、如何にして創建されたのか?こうした質問に対し、日本の人々がもっとも聴きたがる內容の解答がある。まず「日本人」という民族は、この世のどの民族とも全く関係の無い「固有の民族」であり、ヤマト日本という国は、「數千年に渡って、漸進的な政治的、社會的發展の段階」を経て「自然發生的に形成した」、「純粹の土着支配勢力」である天皇家の祖先たちの努力により、ヤマト地域を本據地として成立した日本列島最初の統一國家であるというような答えになる。

多くの日本史学者たちは、過去にもまた現在にも、この模範答案を多樣な形態で包み、日本の國民たちに提供してきている。需要が供給を創造するという古典的な經濟法則の威力を実感できる。

北中國・內モンゴル地域の騎馬遊牧民族に関する專門家の東京大学江上波夫敎授(1906-2002)の騎馬民族說は、たいへん異例的に、ヤマト王国の根源を、大陸から渡ってきた騎馬民族による征服から探そうとした。彼の主張を支えるもっとも核心的な根拠は、およそ4世紀末を轉換點としてつぎつぎと發見された、馬と関連する多樣な古墳の發掘物である。

ただ江上は、意識的であれ無意識的であれ、日本の國民に与える衝擊を最小化するために、その騎馬征服民族の政體を最大限に曖昧にし、また神秘化した。具體性を除去することによって、自分自身の學說に対する日本の大衆の拒否感を最小化しようとしたと言える。どこか知られざる国から馬に乗って渡ってきた王子とその一行によってヤマト王国が創建されたとしたら、むしろロマンと神秘感が極大化されるはずである。一般の人々にとって騎馬民族說とは他ならなく、「天皇族が天から降りてきた」という耳になれた(『古事記』・『日本書紀』)話に、「馬に乗って」という修飾語をもう一つ追加しただけのものであった。

江上敎授が1948年以來絶え間なく主張してきたこの騎馬民族說とは、多くの日本史学者たちによって、肯定的であれ、否定的であれ、非常に深刻に扱われている。ところがヤマト王国が大陸から渡來した人々によって立てられた征服王朝であるならば、はだしてその渡來人集団はどのような人々であったのだろうか?

コロンビア大學敎授のレドヤード(Ledyard)により1975年に修正された騎馬民族說は、江上が語っているその騎馬征服者たちの根源に対する一次的な具體化の作業であった。レドヤードの「修正版騎馬民族說」によれば、4世紀後半に、滿洲の騎馬民族である扶余の人々が、祖国の滅亡という悲しい事実を後にして韓半島を下り、百済地域を通過し、直ちに船に乗り、海を渡ってきて、日本列島を征服したという話である。こうした主張は古墳發掘物の性格が大きく変わる時期とも時代的に一致する内容である。

レドヤートがこのように主張する核心的な根拠は、西紀346年に扶余が滅亡したという記録と、『日本書紀』の神功王后條のなかで發見できる(大略350-380年の期間に該当する)意味の不明な記録である。レドヤードの主張とおり、もしこの扶余人たちが韓半島を縱橫無盡に撃ちながら、下りてくる途中で、韓国の人々を奴隷に掴み馬の後ろに繋ぎ、引きながら、日本列島に渡ってきて、山のように大きい天皇墓を作るに働かせたとするならば、現代の日本人たちの気持もあまり大きく傷付く理由が無いはずである。もともと、扶余という国に関しては、きちんと把握している人もあまりいないだろうから、天皇族が天から降りてきたという話ともあまり大きく異なることはないわけである。

筆者が1988年、1994年、2003年に出版した著書のなかで主張したのは、「4世紀後半に百済の人々が日本列島に渡ってきてヤマト王国を立てた。天皇族の根源は百済の王族である」ということである。筆者の主張の核心的な根拠は、『古事記』と『日本書紀』の全篇に流れている內容である。そして補完的な根拠は『新撰姓氏錄」、『續日本紀』、『風土記』、『三国史記』、『三国遺事』、そして中国王朝の正史等の記録と、多樣な考古學的物証、そして多くの専門家たちの研究成果である。

『古事記』と『日本書紀』の上卷に当たる神々の時代(神代)記録を讀んでみれば、日神アマテラスの子孫であるニニギという存在が登場する。私は、上卷のニニギと、中卷で登場する始祖イハレ(神武)、そして15代王のホムダ(応神)、この三名のそれぞれ異なるものとして記されている存在は、実はヤマト王国の實際の始祖であるホムダという一人の三つの側面に関する記録であると推定した(資料のA1を参照)。

すなわち、『古事記』と『日本書紀』では、ヤマト王国の始祖に関する說話的な記録はニニギの部分が擔當し、戰鬪と征服の記録は神武(イハレ)部分が擔當し、そして百済人の大規模の渡來記録は応神(ホムダ)部分が擔當するという形式である。


Historical Facts


720年に完成された『日本書紀』には、秦氏族の先祖である弓月君が、応神16年[405年]に120個縣の人々を率いて、「百済から」日本に渡ってきたと記録されている。また応神20年條には、ヤマトアヤ(漢)氏族の祖先である阿知使主が、17個縣の人々を連れて、日本に渡ってきたと記している(資料のA2を參照)。

これら秦とヤマトアヤの両氏族は、百済の部制度を見習って、ヤマト朝廷の財政出納等あらゆる行政機能を担当するようになり、そのお蔭でヤマト王室は國家としての機能を十分に發揮することができた。815年に完成された『新撰姓氏錄』によれば、5世紀後半の雄略の時、秦氏族の人数は(92個の部を構成し)總18,670人に達していた。

『新撰姓氏錄』によれば阿知使主[2代王]がサザキ(仁德)に要請して、アヤの人々(漢人)のためにイマキの郡(今来郡)を建てた。イマキの郡は後に高市郡と名前が変更されたが、ヤマト王国の中心地域であった。飛鳥村主、額田村主、鞍作村主、播磨村主、漢人村主、今來村主等がそのアヤ氏族の後裔である。ところが時間が経つに連れてこれらアヤ氏族の人々の数が余りにも多くなり、高市郡はだんだん狭くなり、攝津、近江、播磨等の各地域に彼らは再び分散、配置されたといわれる。『續日本紀』は高市郡が、かつて阿知使主が連れてきた17縣の人々で溢れており、他の氏族は十人のなかで1、2人もいなかったと記している。

『日本書紀』雄略7年[463年]條によれば、鞍裝を製作する人、陶瓷器を造る人、絵を描く人、緋緞を織る人等がその年に多いに「百済から」渡ってきた。これら新しく到着した技術者たちを応神の時に、すでに渡ってきていた(ヤマトアヤ氏族の)人々と區別するために、新しく渡ってきた、すなわち「イマキ」のアヤ(今来漢、新漢)と称し、旣存のアヤ氏族が管轄するようにした(資料のA3を參照)。

東京大學敎授であった文化人類學者石田英一郎(1903-68年)は、ヤマト王国が韓國と何の關係もなく樹立されたと信じたい人はそのように信じても自由であろうが、もしそうであったら応神の時代に韓半島からそんなに多くの人々が日本に渡ってきた理由が說明できる方法はないだろうと述べた。

『日本書紀』によれば、百済王室とヤマト王室がたいへん近い親族關係であろうという印象を強く受ける。例えば、ヤマトの宮中には百済王族のなかで誰かが殆んどいつも滞在していた。

百済の阿莘王(392-405年)の太子である腆支は、397年から405年まで、応神と一緒にヤマトで住んでいた。彼は405年に父王が死去するや百済に帰ってきて、その後を継ぎ腆支王(直支王、405-420年)となった。百済の腆支王は自分の妹新斉都媛をヤマトに送り、応神に仕えるようにしたという記録もある

応神の息子仁徳の治世時期の記録によれば、百済王子酒君(サケノキミ)がヤマトの宮中に来て、鷹を訓練し、仁徳と一緒に鷹狩りを行ったりしていた。百済蓋鹵王(455-475年)の時には、雄略王に牟尼婦人の娘を選び王妃の候補として送っていたが、彼女(池津媛)が不正を犯し、火刑に処される不祥事も發生した。その時からしばらくして、蓋鹵王は自分の弟昆支をヤマト朝廷に送り雄略を助けるようにした。479年に百済の三斤王(477-479年)が死去するや、この昆支の次男が百済に帰ってきて東城王(479-501年)になった。『日本書紀』は雄略が、百済に帰る昆支の息子の顔や頭を撫でながら、別れを悲しんでいたという。

505年、武寧王は王族の斯我君を送り、ヤマト朝廷で仕事を助けさせた。597年4月、百済の威德王は阿佐王子を送った。『日本書紀』は、義慈王の息子豊璋が631年に渡ってきたと記している。

ヤマトの支配氏族の1182個の祖先を記している『新撰姓氏錄』の編纂者は、真人は皇別のなかで上氏であるため、京畿地域の真人氏族たちを第1卷の皇別首に收錄すると述べている。ところが、記録の內容を檢討してみれば、すべての真人氏族を百済王族の後孫として見なすことは出来ない(A4參照)。

660年、百済の首都が唐と新羅の聯合軍によって陷落された後、倭から帰ってきた王子豊璋は、福信と一緒に州柔城で抗戰を続けた。當時、齊明(655-661年)女王と太子天智(662-671年)は、九州まで出てきて、百済救援の作戰を指揮した。663年、ヤマト朝廷は救援兵万余人を送ったが、これらの倭軍は白村江 戰鬪で潰滅され、州柔城は唐の軍隊に陥落された。

この部分では次のような記録が見える。「[ヤマトの]国の人々は互いに次のような話を交わした。“州柔が陥落してしまった。これからは仕方がない。今日、百済という名前は無くなる。これからは我らの祖先たちの墓地のあるそのところを如何にして再び訪ねてみることが出来ようか?”」


4、ヤマト王国の建国説話と高句麗建国説話の類似性


『三国志』の魏書東夷傳に引用されている魏略を見れば、扶余の始祖は他ならぬ東明であり、高句麗の朱蒙の建国說話はすなわち扶余の建国說話を借りて作られたという。魏略の扶余始祖に関する説話は次のようである。昔、北方に「高離」という国があった。その王の侍女が妊娠をした。王はその侍女を殺そうとしたが、彼女は「鷄卵のような気運が降りてきてそのために姙娠をした」と語った。彼女は娘を出生した。(その次からは『三国史記』・『舊三国史』に記されている柳花の説話と非常に類似する)。彼女の息子がすなわち「東明」であるが、東明が南方に逃げて施淹水(松花江ではないかと思われる)を渡って、扶余の地に入り、そこで首都を定めて王になったという。

『古事記』では、ヤマト王国の始祖である「ニニギ・神武」と直接的な血縁関係のある人々に、天神の息子あるいは日神の息子という表現が使われている。(北)魏書によれば、朱蒙は自分自身を日の息子(日子)であり、江の神河伯の外孫であると称していた。『古事記』や『日本書紀』によれば、神武の祖父は天神であり、母は海の神である。神武の兄は、自分が日の神の息子あるいは日神の子孫であると言っている。

『古事記』と『日本書紀』の神代の記録によれば、神武の祖父だけでなく、彼の父親(すなわち神武の曾祖父)でありアマテラスの孫子といわれるニニギもやはり次男であった。人代の記録によれば、神武(イハレ)の兄は、日本列島の征服の戦にでかけた。ところが、第一番目の陸地の戦闘で戰死し、一緒に出発した弟イハレがヤマト王国を創建する。諡號が応神というホムダもやはり神功王后の次男と記録されている。百済の建国說話に見られる沸流-溫祚の関係とも類似するのである。

李奎報の『舊三国史』と金富軾の『三國史記』が記している高句麗の建国說話と、そして『古事記』と『日本書紀』が記しているヤマト王国の建国說話はその核心的な主題(motives)が、驚くほど類似する。

高句麗の建国說話とヤマト王国の建国說話によれば、天の国において天神あるいは日神の息子は(歷史的に明確に究明されない、ある場所に)降りてくるが、その地域の土着の統治者はその場所を避けてあげる。この天帝あるいは天神の息子が水の神、すなわち河神または海神の娘と結婚をし子供を産むのである。天帝の息子あるいは天孫が、命を受けて天の国から降りて来て、地上の世界を出行するうちに、美人(水の娘)に出会い、(彼女の父親から)本当に神の息子であるかどうか試驗を受けて後、彼女と結婚をするおいう部分においては、両方の表現技法までもぴったり一致する。ところが天の息子と水の娘は、完全に人間化された息子を産んでからは、百年偕老が出来ず、離れてなければならない。建国始祖を産んだ歷史的な役割が終われば、これら男女がそれぞれ自分のところに帰らなければならないという宿命もやはり同様の構図である。彼らのロマンスは、地上の人間世界の王国の始祖を産んでくれることで終りを告げなければならない。ここまでが神代に属する神話なのである。

その次には、天の息子と水の娘の間に生まれた子供(あるいはその息子)が成長し、具体的でかつ歷史的な場所で新しい国を建てる。この部分が、完全に人間化された、人代(人々の時代)の伝説になる。人間世界の始祖は歷史的に明確に究明された場所に行く途中で、亀または亀に乗っている人によって助けられる。同行した兄は、新しい王朝の創建に失敗をして弟が成功するという共通のストーリ構造が発見される。本質的な思考の枠を分析してみれば、同一の文化伝統を受け継いだ人々が敍述した、同一類型の建国説話であるということを知ることが出来る。

譬えて言えば、華やかに咲いている花と無数の小さい枝をみな除去し、木の原形を眺めてみれば、二つの木の模様が非常に似ているということである。つまりだれか、扶余・高句麗の建国説話にかなり親しくなっている人々が、日本の地で新天地を開拓してから、自分は最大限の想像力を発揮し、独創的な建国說話を書くつもりで書いてみたが、その結果を見ると、その根本になる枠は越えることが出来なかったようである。結局、扶余-高句麗-百済の建国說話と、ヤマト王国の建国説話は皆同一の系統に属するものであると言えよう。


5、韓国語と日本語


『三国志』魏書東夷傳は、高句麗が扶余の別種であり、言語(言語諸事)等が扶余と同じであると述べている。(ところが後に金を建てた黑水靺鞨の生女眞族の祖先と推定される肅愼-挹婁種族の言語は扶余-高句麗とは異ると明確に記録している。『梁書』の百済傳には、百済の人々の言語と服裝は高句麗と同様であると述べている(今言語服章略与高麗同)。

アルタイ語族の中でも扶余-高句麗-百済語は、一系統の同一の言語であり、これらともっとも近い親族関係の方言として伽倻(弁韓)語、新羅(辰韓)語、馬韓語等が挙げられる。李基文敎授によれば『三国史記』や、『三国遺事』が高句麗、百済、新羅の歷史を記しながらもこれらの言語について一言も言及していなかったのは、皆が同一の言語を使っていたからであろう。

高句麗語と古代日本語は、驚くほど多くの共通の語彙を有していた。とりわけ高句麗語の数詞として3の密(밀)、5の于次(웇)、7の難隠(나넌)、10の徳(턱)等が確認されるが、これらの言葉は古代日本語のミ(三)、イツ(五)、ナナ(七)、トウ(十)等と類似する。李基文敎授は「アルタイ言語同士の間に數詞が一致するのは非常に稀なことであるが、ただ一つ、高句麗語と日本語との間にだけ、このように多くの一致が存在する。これは、この二つの言語の分離年代がそれほど古くはなかったということを示唆する」と言っている。高句麗・百済語は、アルタイ系統の言語として、古代日本語とは特別な親族関係にあった。すなわち百済語と古代日本語の分離年代はそれほど古くはなかったということである。

朝鮮半島においては新羅方言を中心に言語的統一を成し遂げて、現代の韓国語を形成するに至った(新羅語系統の)現代韓国語は、(扶余-高句麗-百済系統の)現代日本語と、語彙的にまたは音韻論的に多少の距離はあるにせよ、形態論的に、または構文論的に検討してみれば、地球上でこれら二つの言語の間と比較して、これらより近い言語は存在しない。要するに、新羅語は高句麗-百済語の親族関係であると言えるのである。


6、おわりに


濊・貊系統の半遊牧民国家であった扶余国(北扶余あるいは東扶余)の人々は、大興安嶺山脈の東側にある(西側の鮮卑・契丹居住地域と東側の靺鞨・女眞族の居住地域との中間に位置する)満洲の松花江流域の平原で畑農事を行っていた。彼らの国の王室で特異な構成員であった朱蒙は、紀元前37年に、自分に従う人々を連れて南側の卒本扶余の地域にまで下ってきて、長白山脈の終段である佟佳江・鴨緑江邊で、高句麗という新しい王国を建てた。

朱蒙の息子のなかで溫祚は、自分に従う群れを率いて朝鮮半島の南側に下ってきて、當時馬韓の人々が定住して畓農を行う農耕社会を形成していたところ、すなわち漢江辺で、百済(南扶余)という新しい王国を建てた。それから4百年余りの時間が経てから、百済の王族であるホムダは、百済王室の積極的な支援を受けて、南側の海を渡ってきた。彼は、かつて伽倻(弁韓)に渡り(アイヌ-ポリネシアンの先住民たちと共に)畓農を行いながら定住生活をしていた弥生の日本列島を征服して、ヤマト地域を中心に(扶余-高句麗-百済系統の)新しい王國を建設した。

近肖古王(346-375)や近仇首王(375-384)が在位していた時期に、百済は、軍事的にたいへん強力になり、もっとも広範囲に渡って領土の擴張を達成していた。遼西に進出して、平壤にも進撃した。そして故國原王を戰死させ(371)、馬韓を完全に服屬させた。百済の人々がヤマト王国の建設のために日本列島に進出を成し遂げたのも、みなこの時代に行われたことと思われる(資料のA5參照)。

698年に高句麗の遺民である大祚榮が靺鞨族と一緒に建設した渤海の使臣が、727年に初めてヤマト朝廷に到着した。『續日本紀』によれば、彼ら渤海の使臣たちは、渤海とは昔の高句麗であり、自分達が高句麗の昔の地を取り戻し、扶余の習俗を受け継がれていると語っていた。扶余-高句麗-百済系統であるヤマト朝廷に来ていた渤海の使臣は、新生の國家の內部にある靺鞨族の性格を、出来る限り触れずに、扶余-高句麗性格だけを强調していたわけである。


**小論は、以下のような私の著書の內容を要約整理したものである。参考文献は、次の4冊の著書の中に記されている参考文献と同様である。

Relationship between Korea and Japan in the Early Period: Paekche and Yamato Wa (Il sim sa、1988)

Paekche of Korea and the Origin of Yamato Japan (Kudara International、1994)

『百済와 大和 日本의 起源』(구다라、1994)

『百済倭』(一志社、2003)


 

参考資料

 


(A1)ホムダ

ホムダは、後世に八幡という名前の軍神として祀られている。数多くの戰鬪を行い、日本列島を征服して統一王國を樹立した、軍事的英雄の側面が强調されていたわけである。いまも日本全國では、2萬5千余りの八幡神社が(神武ではなく)ホムダを軍神として奉じて、祀っている。


(A2)阿智使主之党類 自百済国来帰

409年の秋の9月、ヤマトアヤアタヘ(倭漢直)の祖先であるアチオミ(阿知使主)が、その息子ツカオミ(都加使主)と一緒に17県の人々を率いて[百済から]渡ってきた。『古事記』や『日本書紀』は、なぜ「漢王朝、川名、天の川」等を意味する「漢」という文字を書き、「あや」と読んでいたのか分からない。

『古事記』によれば、「百済王が馬2匹を阿知キシの方に送った。また、大剣や大鏡を送ってきたが、(ホムダが)百済国に、もし賢人がいれば送ってくれと言ったら、ワニキシを送ってくれた。また技術者二人を送ってくれた。そしてハタミヤツコ(秦造)の祖先、アヤアタヘ(漢直)の祖先及びお酒が造られるニホという人等が渡来した」という一つの長い文章がある。この文章のなかに見られるハタ氏族の祖先とアヤ氏族の祖先は、当然ながらみな百済より渡来した人々であると理解すべきである。たしかに『日本書紀』は、ハタ氏族の祖先である弓月君が「百済」から渡來したと明確に記している。

ところで『日本書紀』は、アヤ氏族の先祖もやはり「百済」から渡來したと改めて明確にはしていない。この再確認の漏落を根拠に、そして『新撰姓氏錄』がハタ氏族の場合と同様に、阿知使主が後漢の霊帝の3世孫あるいは4世孫であるとし、アヤ氏族を中國(漢)から渡ってきた氏族に分類していることを根拠に、大多数の日本史学者達はアヤ氏族もやはり中國から渡ってきた氏族であると主張する。

播磨風土記は、オシカハ地域に関して述べながら、ホムダの治世の時期、出雲大神がこの地域を通過していく人々の半分くらいを殺しているという報告を受け、王が人を派遣し、出雲大神を楽しませるために祭祀や宴会を行ったという。後にはアヤ氏族の人々が、こちらに移住してきて住みはじめてから、出雲大神を祀るための祭祀を行い和解をしたという。新生のヤマト朝廷が、(『古事記』や『日本書紀』のなかで、スサノオと代表される)出雲の新羅系の定着者たちとの和解をするために、アヤ氏族の役割が大きかったようである。

『日本書紀』によれば、[7代王]雄略の治世の時に、カフチアヤ(西漢)氏族の歡因知利の提案により、百済に技術者達を送ってくれるように要請した。當時、百済が新たに派遣してくれたイマキの技術者(今来才伎)達をイマキアヤ(新漢)またはアヤ技術者(漢手人)と呼んだ。これらは、はじめにはヤマトの廣津邑に居住させたが、後にヤマトアヤ(東漢)氏族のアタヒツカに命じて、モモ原とマカミ原に移り居住させた。桃原と眞神原はみな、現在の奈良縣のタケチ(タカイチ)郡のアスカ村にある。

雄略の治世の時、百済から新しく渡ってきたアヤの技術者たちを、その前のホムダ治世の時に渡ってきたアヤ技術者達を區別するために、「イマキ(今来、新)」アヤ(漢)と呼んだ。ところが「アヤ」氏族であれ、イマキ「アヤ」氏族であれ、みな一次的には高市郡に配置された。多くの現代の日本史学者達はこの記録を読んでからも、アヤ氏族が中國系であるという。『續日本記』は高市郡が、かつて阿智使主が連れてきた17縣の人々に溢れて、他の氏族は十人のなかで一人、二人もいないと記している。『新撰姓氏錄』のようであれば、ヤマト王国の核心の本據地は中國の人々で溢れていたという話になる。

ただ常識的に考えてみても、當時、廣開土大王の高句麗と全盛期の百済、新羅、伽倻の諸国々が勢力を争っていた満洲と韓半島を、17縣または120縣の数多くの「中國」の人々が無人の土地を通過するように下ってきて、韓半島の南端の海を渡り、何の緣故もないヤマトの地に集まってくることが出来るだろうか。5世紀初という時期は、韓半島が無主空山の空の時期ではないのである。

『三國史記』に引用されている記録によれば、紀元前18年に、溫祚が慰礼城にも都を定めていたが、それから389年が過ぎた371年に近肖古王が都を漢城に移っていた。慰礼城も漢城もみな漢山と漢水の隣近の地域である。「漢城百済」はそれから105年が過ぎてから(475年に長壽王が、この王都の漢城を包圍して蓋鹵王をつかみ殺した時)文周王が熊川に遷都し、その「漢城百済」の時期は終わった。

5世紀の初、「漢城百済」から渡ってきた阿智使主とその人々を「アヤの人々(漢人)」と称するのは、何の不思議なことでもない。勿論、なぜ「漢」という文字を「アヤ」と読んだのかは分からない。

『日本三代實錄』の「清和」貞觀4年(862年)條は、坂上という氏族が(後漢の孝靈皇帝の4代孫)「阿智使主」の後裔であるが、阿智使主の人々は(中國からではなく)「百済」から渡ってきたと、明確に記している(阿智使主之党類、自百済国来帰也)。『日本三代實錄』は、宇多王(887-897年)の命により編纂された清和-陽成-光孝の3代の29年間(858-887年)を記した歷史書物である。

播磨風土記は、少宅里という村の話をしている。その村は本來アヤ氏族の人々がやってきて住んでいたので、アヤべ(漢部)里と呼んでいた。ところが後に若狹という人の祖父がオヤケのハタ氏族の女人を妻として迎えていたので、[510年に]若狹の孫智麻呂が村の長になった時、村の名前を改めて妻の実家の方に従いオヤケと改めたと記録している。

 


(A3)渡來人の分類方式

 

『續日本記』の記録と『日本書紀』、『古事記』の記録はみな王仁が百済から渡ってきたことを明らかにしているが、ただ『新撰姓氏錄』だけは王仁が中國から渡ってきたという。それだけでなく『新撰姓氏錄』は、ハタ氏族とアヤ氏族も中國(漢)から渡來した氏族として分類し、多くの日本の史学者達を喜ばしている。なぜであろうか?その理由を探ってみよう。

『新撰姓氏錄』が編纂されていた8世紀末と9世紀初という時代は、ヤマト王国全體がまだ中國の文物に憧れ、一所懸命に遣唐使を派遣していた時期であった。韓半島の百済はすでに滅亡してから長くなっていた。中國のすべてに憧れ、中國との歷史的関連性がただ美しく思われる時期であった。

『新撰姓氏錄』から諸蕃と呼ばれる渡來人の氏族の記録は、中國の漢から渡ってきたという氏族からはじめ、百済、高句麗、新羅、伽倻の順に記るされていた。漢から渡ってきたという氏族の祖先は秦始皇帝、漢高皇帝、後漢の光武帝、霊帝、憲帝、魏武帝など、たいへん優れた人物たちである。

ところが『新撰姓氏錄』に記されている(京と周辺5個の国の)1182個の支配氏族の祖先を檢討してみれば、(「天孫降臨」の原則により)記録上に完全に「土着化」していた百済系の支配氏族を除外しても、あまりにも百済を中心にした韓國系が多いということが分かる。このために、『新撰姓氏錄』の編纂者達は、人爲的に歪曲をしても均衡を取るために、阿智使主、弓月君、王仁のように明確に百済から渡ってきた人々を中國(漢)から来たと、無理やりに分類していたのである。

『新撰姓氏錄』に載せてある1,182個の氏族の中で、335個は皇別、403個は神別、328個は諸蕃、116個は未定雑姓の氏族に分類されている。403個の神別は、373個の天神氏族と30個の地祇氏族に分かれている。

明確に渡來氏族と分類されている328個の諸藩氏族の祖先は、104個が百済、42個が高句麗、9個が新羅、10個が伽倻、163個が中國から渡ってきたものとされている。ところが中國から渡來したという氏族のなかには、王仁、弓月君、阿智使主等の後孫を含め、54個の百済系統の氏族が包含されている。これを正しくすれば、諸藩のなかで、百済から渡來した氏族は158個に增加し、中國から渡來した氏族は109に減少する。116個のその他の未定の雜姓氏族の中には、百済、高句麗、新羅、伽倻の出身は、それぞれ18個、7個、8個、1個であり、すべて合わせれば34個が含まれている。

ヤマト王国の草創期に渡來した百済王族の後孫を皇別と見なし、彼らと共に渡來した非王族の支配層の後孫を(天から降りてきたという)天神氏族の神別と見なせれば、『新撰姓氏錄』に載せている1,182個の支配氏族のなかで、韓國からの渡來人と直接的な繋がりのない氏族は、土着勢力の地祇氏族30個、中國出身の諸藩氏族109個、非韓國系の未定の雜姓氏族82個等、みな合わせて、全體の20%に達していない。要するに総221個の氏族に過ぎないのである。

『新撰姓氏錄』自體の記録によれば、5世紀初に弓月君が連れて渡ってきた120縣の秦氏族の數は、5世紀後半の雄略王の時期に来ては18,670人に達していた。阿智使主が連れてきた17縣のアヤ氏族の人々も、はじめは今來郡(後に高市郡に改名)に定着したが、人々がだんだと多くなり、その場所が余りにも狭くなって、攝津、近江、播磨等の各地域に分散、配置されなければならなかった。これたの分散された村の村主は殆んどは、みなアヤ氏族の人々が担当していた。『新撰姓氏錄』の編纂者達は、何よりもこのように規模が大きい秦氏族とアヤ氏族の出身を百済にそのまま入れておくにはいかなかったようである。

 


(A4)『新撰姓氏錄』の真人氏族

日本古代史においては、所謂天平文化の時代と呼ばれる期間(749-757年)がある。當時、主要氏族の系譜はたいへん混亂の状態に陥っていた。そこで、いわゆる天平勝宝の末期に、主要氏族の始祖(出自)の記録を整理するために著名な學者達が呼び集められた。ところが彼らの作業がまだ半分も終わっていないうちに、政府がある困難に処するようになり、彼ら學者達は解散されてしまった。その後の799年に、桓武の命令を受け、その息子万多(万多親王、783-830年)が主導する委員會で、姓氏錄の編纂作業が再開された。そして嵯峨(809-823年)の在位の期間中である815年にやっと完成されたのである。

この姓氏錄には、京畿、すなわち当時の首都(京)と、大和、攝津、河內、山城、和泉等畿内地域に居住する1,182個の主要氏族の祖先たちが收錄されている。第1部には天皇、皇子の後孫である335個の皇族(皇別)の祖先が記録されている。第2部には、天神と地神の後裔といわれる神族たち(神別)の祖先が、そして第3部には中國と韓國の人の祖先を持ったといわれる諸藩の祖先が記るされている。

姓氏錄の序文によれば、真人が皇別のなかで第一の王室直系の氏族(上氏)であるため、京畿地域の真人氏族を第1卷の皇別の冒頭に収録したという。『日本書紀』によれば、天武天皇は天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)と呼ばれていた。

姓氏錄の第1卷のすぐはじめのところに載せてある4個の真人の皇別は応神王の後孫として記録されている。第5番目は継体王の後孫、6番目から12番目までは敏達王の後孫、そして13番目から20番目の真人皇別は、「百済親王」の後孫であると記録されている。

ところが12番目の氏族、すなわち百済親王の後孫として記録されている氏族達のすぐ前に記録されている真人皇別は、敏達の後孫であるだけでなく、また同時に百済王の子孫として記録されている。言い換えれば、(6番から12番までの)敏達の後孫は百済王の子孫と同一であるということになる。

『日本書紀』によれば、敏達は継体を継承した欽明の次男であり、継体はまた応神の5世孫になる。換言すれば、一番目から20番目までのすべての真人皇別たちは、百済王の子孫であったと姓氏錄は記していたわけである。

また『日本書紀』によれば、宣化は継体の次男、用明は欽明の四男、舒明は敏達の孫、天智は舒明の長男、天武は天智の弟である。ところが21番目から44番目までの残りの24個の真人皇別は、応神、継体、宣化、敏達、用明、舒明、天智、天武のなかで、ある一人の王の子孫として記録されている。

これは『新撰姓氏錄』の冒頭に収録されている総44個の皇別たちが、みな真人であると同時に、百済王の子孫であると見なされうることを意味する。これはまた、応神-継体系統の核心的な日本王族の全體が百済王族の後裔であることを意味するわけである。

以上のような記録を根拠に、筆者はヤマト王国の始祖であるホムダの「母の実家」は(ニニギ-タカキの関係のように)百済の眞氏の家門であり、(ニニギ-アマテラスの関係のように)その「父の実家」は扶余氏である百済王室と推定した。

 


(A5)遼西、晋平の百済郡


宋書によれば、かつて百済は遼東の東側の約1千余里の外にあった。ところがいつの時期からか、遼西を占領して晋平郡の晋平縣を統治していた。梁書、『南濟書』、『資治通鑑』(永明6年條)等はみな、百済が東晉(317-420年)の時、遼西、晋平の2郡を占據して百済郡を設置したと記している。

『三國史記』は、東城王10年(488年)に、北魏(386-534年)が軍隊を動員し、(遼西の晋平の地に位置していた百済郡を)侵攻したが、百済の軍隊に戦敗して何の所得もなく帰ってしまったと記録している。『資治通鑑』の永明6年(488年)條にも同様の記録が見られる。

『南濟書』は梁の簫子顕が編纂した南濟(479-502年)の正史である。この『南濟書』によれば、百済の東城王は490年に南濟朝廷に次のような文章を送った。「今回に派遣しました行建威將軍廣陽太守兼長史である高達と、行建威將軍、朝鮮太守兼司馬である楊茂、そして行宣威將軍兼參軍である會邁等3人は、かつて泰始年間(465-471年)に、共に宋の朝廷に使臣として派遣されたことがあります。いままた使臣の任務を受け、危ない波を乗り越え海を渡って行きます。それぞれの人には、仮の行職を与えました。願うには、正式に官職を与えてください。達は、辺境において功績が大きかったため、いま假に行龍驤將軍帶方太守とし、茂は、公務を充実に成し遂げましたので、假に、行建威將軍廣陵太守としました。邁は見事によい勤務成果をあげましたため、いま、假に行廣武將軍淸河太守としました」と述べた。南濟の朝廷はこれをみな許諾するという詔書を与え、將軍等の号や太守等の官職を与えた。

『南濟書』は、490年に北魏がまた騎兵數十萬を動員して、遼西の百済郡を侵攻したので、東城王(牟大)が將軍沙法名、贊首流、解禮昆、木干那等を派遣し、北魏の軍隊を奇襲的に攻擊して大きく破ったと記録している。

『南濟書』によれば、百済の東城王は495年にまた使臣を南濟の朝廷に送り、「表」を差し上げた。北魏の侵略を破った沙法名を假行征虜將軍邁羅王に、贊首流を假行安國將軍辟中王に、解禮昆を假行武威將軍弗中侯にして、木干那は過去の戰鬪で功績もあり、また今度は城門と船舶を打ち破ったため、假行廣威將軍面中侯としたが、定式に官爵を与えるように要請した。

東城王は、また再び表を送り、使臣として派遣した行龍驤將軍樂浪太守兼長史である慕遺と、行建武將軍城陽太守兼司馬である王茂、參軍行振武將軍朝鮮太守である張塞、そして行揚武將軍の陳明などに、正式に官爵を与えるように要請していた。南濟の朝廷は、詔書を与え、彼らの官職をすべて認め、將軍の稱號を与えた。これはみな『南濟書』の記録である。

『南濟書』に見られる廣陽、廣陵、淸河等の地域は、当時渤海彎の沿岸から近い遼西の內陸地域である。百済はこの地域を守るために、北魏と何回も戦闘をしていた。また、当時戰功を建てた将軍達をその地域の太守として任命すると同時に、南濟の朝廷から公式的にその認証を貰っていたのである。

『梁職貢圖』を見れば、東晋の末年(317-420)に、百済が遼西に進出していたようである。『資治通鑑』の晉紀の穆帝条に見られる記録によれば、近肖古王元年(346年)の前に、すでに進出していたようである。いずれにしても、『資治通鑑』の永明6年條や、『南濟書』、『三国史記』等に見られる北魏との衝突記録を見れば、東城王の治世期間(479-501年)までも、百済がまだ遼西を掌握していたと思われる。

ところが金富軾をはじめ、中華事大の思想に拘った史学者達は、百済が遼西の地を攻略して百済郡を設置したという多くの記録を直接に目にしながらも、敢えてその內容を口にすることは出来なかった。結果的に『三国史記』は、北魏が不思議にも長壽王の通治の下の高句麗を乗り越え、まるで韓半島の南西部に位置している百済の本土を攻撃していたような印象を与える9個の文字(魏遣兵来伐為我所敗)だけを揷入して、他のことはいっさい触れていなかった。

崔致遠は858年頃、新羅の首都であった慶州で生まれ、874年に唐で科擧に及第し官職に就いた有名な文人である。『三國史記』は、崔致遠が書いた文集のなかで次のような文章を引用している。「高句麗、百済がその全盛期の時には、强兵が100万に達し、南には吳越の両国に侵攻し、北には幽·燕·齊·魯の地域を揺さぶり、中國の大きな悩むところであった」。

多くの日本の史学者たちは、百済の遼西への進出記録を不信の對象にするために、所謂「論理的な推理」というものを展開している。興味ぶかい現象は、『資治通鑑』の永明6年(488年)條、『南濟書』の永明8年條、そして百済本紀の東城王10年(488年)條を扱うに際し、彼らの病的な想像力やでたらめな詭弁は、その極点に達しているのである。